余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった。
『病床六尺』正岡子規 より
これは俳人正岡子規の結核闘病の中で没するまでの5ヶ月間の病状・画論・時評その他病床にあって思いつくままの各方面にわたる感想を収録したものの中の一文です。
よく、甲斐恵林寺の快川紹喜が織田信長に攻められ火をかけられた時に「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言った等、禅宗の僧侶の悟りの境涯において平気で死んで行くといった表現がよく見られます。「死」が強烈なものですから気を取られてしまいますが、平気で死ぬまでには、様々な人生があるわけです。涙を流す事、歯を食いしばって耐える事様々です。平気で死ぬには、その前の平気で生きて居る時間があるのです。
この約1年半のコロナ禍、私たちは苦しみの中にいます。辛い事が沢山あると思います。先の見えない不安で時に他人を傷つけたり、配慮の無い行動をとったりしてしまうかもしれません。それに気がついて心を元に戻せる自分になりましょう。他人への気遣いを今一度考えてみてください。
諸行無常の人生です。悲しいですが誰もがいつかは亡くなる。
「平気で死ぬにはそれまで平気で生きて居る事」
コロナ禍を脱するまではもう少しです。
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